東方出版 ¥1500+税 2007年5月7日発行 ISBN978-4-86249-066-7
「理系の言葉で語る「みどりの香り」とその情報シグナル
山岸秀夫:財団法人体質研究会主任研究員、京都大学名誉教授(分子遺伝学、免疫学)
本書は、「いのちの科学を語る」全五巻中の前半と後半をつなぐ役割を果たしている。 前半では、「いじめ」に代表される子どもの「こころの危機」(第1集)1)や、全ての人から生きる楽しみを奪う「いたみ」を取り上げ(第2集)2)、その解決のきっかけとして、文明によって失われた「自然」の復権を訴えている。ところで、自然界には現在知られているだけでも150万種の生物が生きていて、実際は1000万種を超えると推定されている3)。しかも、その中のほぼ半数は無脊椎動物の頂点にある昆虫であって、植物との複雑なネットワークの中で生きている。本シリーズの企画の意図は、本書で、ヒトの「いのち」から一旦離れて、複雑な自然のネットワークの中で展開される昆虫と植物の「いのち」へ目を転じて、再び後半の脊椎動物の頂点にある霊長類としてのヒトの「いのち」の普遍性を考える布石とするところにあった。
本書の姉妹シリーズとしての「ルネッサンス京都21」五感シリーズ全五巻の第1集「香りでこころとからだを快適に」が、ほぼ期を同じくして発刊され、人のこころの癒しに「みどりの香り」が取り上げられている。ところが、植物と昆虫が交信するシグナルも、植物が自らの傷を治すシグナルも、「みどりの香り」なのである。その「みどりの香り」の実態が、本書では、より詳細に理系の言葉で語られている。しかし、始めて「香りの科学」に接する主婦や文系の方々には、4章からなる本書の全文を読み通すのは、きわめて困難であろうと思われる。まずは、せめて第1章だけでもご覧頂きたい。ここでは、植物をエネルギー源として生きている多様な昆虫の世界が「みどりの香り」で連なっていることを実感されることであろう。また実際に農業に従事しておられる方は勿論、家庭菜園を楽しんでおられる方にも、是非第4章をお読みになって、「持続可能な農業技術」をお考え頂きたい。自然環境保護に関心をお持ちの方には、是非第1と第4の両章をお勧めする。
第2章は、植物と昆虫の2者の関係でなく、昆虫を植物から見て害虫と天敵の2者に分けて、植物を交えた3者の関係(3者系)として考えているので、少し複雑な交信系が語られている。第1章に興味を覚えられた方は、是非第2章まで進めて、お読みいただきたい。第3章では、同一植物をめぐって二つの3者系が成立する場合、植物が夜と昼とで異なる信号を出す場合、植物間の交信など、野外の状況に近い複雑なネットワークが語られている。実は、この章は著者がもっとも情熱をこめて、最新の未発表データも駆使して語られたハイライト部分ではあるが、多くの生のデータは伏せて、図示されていないので、表現は正確であるが、読解されるのにもっとも時間を要する章である。
以下に、評者がインタビュワーとして興味を覚えた数例をあげて、この分野の今後の研究の発展に期待したい。
?第2章の単純な3者系に限っても、害虫(多くは青虫)にかじられた植物は特定の天敵を呼び寄せるSOS信号を出す。そのSOS信号の特異性は「匂い成分のブレンドの違い」とのことであるが、害虫による機械的傷害と化学的障害を植物はどのように分別受容して、特定のSOS信号(匂いのブレンド)に変換するのであろうか?
?第3章の植物間の害虫警報(トーキング・プラント説)の実体は、発現遺伝子の試験管内増幅(PCR法)によって解明されたようであるが、その植物側での「匂い受容体」はどのように働いているのだろうか?「みどりの香り」は植物自体の生体恒常性(ホメオスタシス)にも関連しているのであろうか?
?第4章のSOS信号を強化した遺伝子組み換え(GM)作物に関連して、是非実際に植物が進化の過程で、SOSシグナルを獲得してきたという証拠を見つけてほしい。そうすれば、植物のSOSシグナル系は、動物の免疫系そのものと比較しうることになる。害虫は異物に対応し、SOSシグナルは天敵特異的抗体の産生に対応することになる4)。植物と動物は「いのち」の生きる戦術は異なるが、「こころ」も含めて、その生きる戦略は案外普遍的なものかもしれない。
平成19年5月7日
文献
1)山中康裕 著:子どものこころと自然、東方出版(2006)
2)熊澤孝朗 著:いたみを知る、東方出版(近刊)
3)岩槻邦男 著:多様性から見た生物学、裳華房(2002)
4)山岸秀夫 著:免疫系の遺伝子システムー免疫防御システムの分子遺伝学、共立出版(2000)